いつも仕事に、家事に、育児にお疲れ様です。疲れたときは、ちょっと一息つきましょう。
あなたはこの言葉をしっていますか? 「介護の毒は孤独」
この言葉は介護アドバイザーの高口光子氏の言葉です。実は高口氏は、もともと理学療法士というリハビリ専門職が出発点です。
高口氏の言葉を聞いて、ふと思ったことがあります。それは、子育てと介護って、どこか共通点がある。
今からお話する9つの中で、あなたの子育てに活かせそうな言葉はありますか?
「食事」「入浴」「排せつ」の3点
特に重要視しているのが「食事」「入浴」「排せつ」の3点
この3つは、生活をするうえで基本です。「食事」「入浴」「排せつ」を通じて、家族は家族として関係を深めていきます。
子育てを思い出してください。一緒にご飯を食べ、一緒にお風呂に入れて、トイレトレーニングもします。この日常の積み重ねがあるからこそ、人間同士の関係性が深まっていきます。
介護でも、子育てでも同じことです。ごく普通の、当たり前のような生活の繰り返しが実は大変重要なのです。
自己満足に浸っていたのです
「よく頑張りましたね」と言いながらすっかり自己満足に浸っていたのです。
高口氏が若いころのエピソードとして、一生懸命食事の介助をしていた時の様子を振り返ったときに出てきた言葉です。
自分が「よかれ」と思ってやっていたことは、本当にそれでよかったんだろうか?
ただの自己満足ではないだろうか。そんな自分自身に疑問を投げかける言葉です。
子育てをするときも、自分がやってあげたことは子どものためになっているのか、自分がしてあげたいからやっているだけになっていないだろうか?
ちょっと厳しいかもしれませんが、これってとても大事なことです。
子どもは子ども自身で成長する力があります。
子どもが主体的に活動できる関わりをすることによって、子どもは自信をもって行動できるようになります。自分の言葉と行動、感情に責任を持つようになります。
どんな決断であれ、全力で応援する
子どもが一生懸命に悩んで決めることが大事。どんな決断であれ、全力で応援するのが私たちの役目なのだ。
年老いた親の最期を決めるのは「子ども」である。
この言葉にでてくる「子ども」は幼い子供ではなく、親の最期の時に直面した大人になった「子ども」です。
延命するか、しないか。年老いた親の代わりに「子ども」が決めなければなりません。
その時の判断を全力で応援するというのが、専門家の役割です。
幼い子供の場合は、様々なことを「親」が決めます。でも、親が年をとるとその立場が逆転してしまうんですよね。
高口氏はこのことを別の言葉で次のように表現しています。
「親の最期を子どもが決めるのは、親の最期の子育て」
そして、その年老いた親の気持ちを想像してこんなセリフにしています。
「あなたが一生懸命考えて、きめたことなら、いいよ。それで、いいよ」
そう。どんな答えであっても、子どもが一生懸命考え抜いた結論であれば、それでいい。
子育ては、子どもの考えを親が受け止めてあげることが大切だと、とらえることができます。
どんな時だって、親は「子どもの味方」なんですから。
職員だけではできない、家族だけではできない介護がある
職員だけではできない、家族だけではできない介護がある
「その人」にとってかけがえのない存在の家族しかできないこともあります。
職員がプロとして、チームとして動くことで、実現できることもあります。
子育ても同じです。
お母さんにしかできないことがあります。お父さんにしかできないこともあります。夫婦で協力して実現できることもあります。おばあちゃんやおじいちゃんを含めた家族一丸で出来ることもあるでしょう。
重要なのは、中心に「子ども」がいるということなのです。
あるがままのその人なのだと考える
治らない機能障害も含めて、それがあるがままのその人なのだと考える
機能障害とは「手が動かない」「足が動かない」といった運動機能のほかに、なにかを判断する、覚える、ことばをしゃべるといった脳の機能が障害をうけることです。
リハビリテーションでは可能な限りこれら機能の回復を図りますが、どうしても後遺症として障害が残ってしまう場合があります。
発達障害や生まれつき機能に障害がある場合は、治るとか治らないとかそういった次元の話ではなくなってきます。もともとがそうなのですから、元に戻すという考えをあてはめることができません。
だからこそ、あるがままのその人だと考えるということが重要となります。
頭ではわかっているけど、現実はそううまくはいきません。
とくに自分の家族や子どもとなると、簡単ではありません。私自身も子どもが発達障害と診断されたときは、とても悩みました。
療育の集団活動に子どもを連れて一緒に行った時のことです。
一生懸命、みんなと活動するわが子を見て、愛おしく思う気持ちと同時に
「なんで、自分と子どもはここにいるんだろう」
自然に涙が出てきました。
言葉に表現できない、複雑な感情を抱いたのは、この時が最初で最後です。
私はその時のことを、いまでも鮮明に覚えています。
あなたも同じような感情を抱くのなら、あなたは一人ではありません。わたしも一緒でしたから。
「今、あたたかい」「今、気持ちいい」「今、さっぱりした」
「今、あたたかい」「今、気持ちいい」「今、さっぱりした」
「今を一緒に生きている」ということ
食事、入浴、排せつ、この3つが関係を育むと冒頭にお話ししました。
それに加えて大切なことが、この言葉です。
「今、あたたかい」「今、おいしい」「今、すっきりした」
「今」をともに感じる、共感するからこそ関係は深まってきます。
子どもと一緒に、「今」を共感できる子育てをしましょう。
もちろん、「今、うれしい」「今、楽しい」ばかりではありません。「今、悲しい」「今、つらい」ネガティブな時でも、子どもと一緒に共感できることが、子育てには必要です。
今日このときを一緒に生きていることを大切に
今日このときを一緒に生きていることを大切に
「今」を感じる事、それは「今」この瞬間を一緒に生きていることです。
この言葉、じつは死期を目の前にしたお年寄りと関わり中で、今を大切にしてほしいという思いから出た言葉です。明日のことなんて予測ができませんから。
でも、子育てにとっても「今」はとっても大切なのです。
あっというまに子どもは成長してしまいます。
私自身振り返ってみると、光よりも早いスピードで成長してしまったんじゃないかと思うくらいです。
とってもかわいい赤ちゃんの時期、たどたどしい幼児の時期、活発な小学生、勉強と進路になやむ中学生や高校生…そして、大人になっていく。
ほんとうにあっという間です。
仕事に、家事に忙しくて、「今」が大事なことはわかっているのに、つい忘れてしまいます。
ときには、それら手を止めて「今」を分かち合う時間を作りましょう。
そしてもう一つ「今」が重要なことがあります。
子どもにとっては、「今」感じたこと。それが、未来の行動を作ることになるのです。
あなたが花をみて「きれいだね」と子どもと喜びを共感した「今」
子どもはお花を見るたびにこのエピソードを思い出すかもしれません。
お母さんにお花を摘んであげようという行動につながるかもしれません。
この「今」の経験が、子どもの未来の行動を作ります。
「私が生きていく意味」を全身で聞いてくる
全介助の人も、認知症の人も、お年寄りは「私が生きていく意味」を全身で聞いてくる
「こんな自分でも生きていていいのか」
このお年寄りたちの問いかけに、「今、おいしい」「今、あたたかい」という介護を行うことで、こたえていこうとする言葉です。
幼い子供たちもまた「私が生きる意味」を問いかけてきます。障害があっても、なくても。
それに対して、親は子育てをするなかで必死に伝えていきます。
あなたの生きる意味、それは「子ども自身」を肯定することです。
「ここで生きていってもいいんだ」という、生きる事への肯定となる
お年寄りが「私はひとりではない」と実感できるということは、「ここで生きていってもいいんだ」という、生きる事への肯定となる
介護の現場では、お年寄りに対して「あなたのご飯」「あなたのトイレ」「あなたのお風呂」という、その人らしい生活が保障されることによって、お年寄りは一人ではないということを実感します。
つまり、「わたしの居場所がある」ということです。
子どもにとっても同じことです。
「ただいまー」と戻ってくる場所がある。お母さんやお父さんが抱きしめてくれる。
「わたしにとって、ぼくにとって、居場所はここにある。ひとりじゃないんだ」
この実感こそが、子どもの生きる事への肯定になるのです。
この肯定は、子どもの自信となり、意欲となり、成長して、そして、巣立っていきます。
親としては、うれしいような、でもさびしいような。
「こまったら、いつでももどっておいで」
いつまでたっても、子どもは子どもであり、親は親なのです。
この話をもっと知りたいあなたへ
この記事の出典作品
「生活支援の場 ターミナルケア 介護施設で死ぬということ」
著者:高口光子
2016年 講談社
まとめ
おぎゃーと生まれたときは、立つことも寝返りもできません。お年寄りになり、体が弱ってくると、当然ながら同じように自分で動くことすらままならなくなります。
育児と介護はどちらも、「人」とのかかわりが重要になってきます。
冒頭に紹介した「介護の毒は孤独」
介護する人もされる人も一人ではありません。
おなじように、育児をする人もされる子どもの、決して一人ではありません。
この記事があなたにとって何かの役に立てば幸いです。
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