「発達障害には遺伝が関係している」
このことは、現在ではかなり確かな科学的知見になっています。
しかし、ここで一つ大きな誤解が生まれやすくなります。
それは、
「遺伝するなら、親から子へそのまま受け継がれるのでは?」
という考え方です。
あるいは、
「遺伝的に決まっているなら、環境を変えても意味がないのでは?」
と考えてしまう人もいるかもしれません。
実際には、ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如・多動症)の遺伝研究から見えてきた世界は、もっと複雑です。
現在の研究では、
「たくさんの遺伝的な違いが、少しずつ影響し合いながら、発達のしやすさに関係している」
という考え方が重要になっています。
さらに、一部の人では、比較的大きな影響を持つまれな遺伝的変化が関係することも分かってきました。
つまり、
ASD・ADHDは「一つの遺伝子で決まる病気」ではありません。
今回は、遺伝率、多因子疾患、ポリジェニックスコアという言葉を入り口に、
「遺伝=運命」ではない理由
まで、できるだけ分かりやすく解説していきます。
1.まず「遺伝率」とは何なのか?

ASDやADHDについて調べると、
「遺伝率が高い」
という説明をよく目にします。
ここで注意したいのが、
遺伝率=その人の特徴が何%遺伝で決まっている
という意味ではないことです。
これは非常に重要です。
例えば、ある集団について「遺伝率80%」と推定されたとしても、
「この子のASDの80%は遺伝で、残り20%は環境」
という意味ではありません。
遺伝率は、
ある集団の中で見られる個人差のどの程度が、遺伝的な違いによって統計的に説明されるか
を示す指標です。
つまり、
個人についての運命を予測する数字ではありません。
2.ASDの遺伝率は高い
ASDは、発達障害の中でも特に遺伝的要因の関与が強いことが知られています。
家族研究や双生児研究、分子遺伝学研究などから、ASDには大きな遺伝的寄与があることが示されています。
しかし、その「遺伝的寄与」の中身は単純ではありません。
ASDでは、
- 多数の一般的な遺伝的変異
- 比較的まれだが影響の大きい変異
- de novo(新生)変異
- コピー数変異(CNV)
- 遺伝子同士の組み合わせ
など、さまざまなタイプの遺伝的要因が関係しています。
つまり、
「ASDの遺伝子はこれです」
と一つの遺伝子を示せるようなものではありません。
近年のレビューでも、ASDの遺伝学は「多数の一般的な変異」と「まれで影響の大きい変異」の両方から成り立つ、非常に複雑な構造として理解されています。
3.ADHDも遺伝的な影響が大きい
ADHDについても、遺伝的要因の関与は非常に大きいことが知られています。
2023年に発表された大規模なゲノムワイド関連解析(GWAS)では、
ADHDのある38,691人と対照群186,843人
を対象に解析が行われました。
この研究では、ADHDと統計的に関連する27のゲノム領域が見つかり、76の候補リスク遺伝子が注目されました。
さらに、これらの遺伝的特徴は、発達初期の脳で発現する遺伝子や、神経細胞、認知機能などとの関連を示しました。
ここでも重要なのは、
「27個の遺伝子がADHDを起こす」
という意味ではないことです。
これらはあくまで、
ADHDになりやすさと統計的に関連する遺伝的領域
です。
一つひとつの影響は小さくても、それらが多数組み合わさることで、発達上の特徴に影響する可能性があります。
4.「多因子疾患」という考え方

ここで登場するのが、
多因子疾患
という考え方です。
多因子疾患とは、簡単に言えば、
一つの原因ではなく、たくさんの要因が組み合わさって生じる状態
です。
ASDやADHDでは、
遺伝的要因
+
発達過程
+
環境要因
+
身体的要因
+
その他のさまざまな要因
が複雑に関係していると考えられています。
ここで大切なのは、
「遺伝か環境か」ではない
ということです。
むしろ、
「遺伝的な特徴を持った脳が、どのような環境の中で、どのように発達していくのか」
という視点が重要になります。
5.遺伝子は「設計図」ではなく「発達のしやすさ」に関係する
遺伝について考えるとき、
「遺伝子=身体や脳の設計図」
というイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかし、実際の発達はそんなに単純ではありません。
遺伝子は、身体や脳を作るための情報を持っています。
しかし、
遺伝子がそのまま行動や能力を決定しているわけではありません。
遺伝子の働きは、
- 発達のタイミング
- 神経細胞の形成
- シナプスの形成や調整
- 神経伝達
- 脳のネットワーク形成
- 神経細胞の興奮と抑制
- 遺伝子発現の調節
など、非常に多くの生物学的過程に関係しています。
そして、その結果として形成された脳が、さらに経験や環境との相互作用の中で変化していきます。
そのため、
「遺伝子がある=その特徴が必ず現れる」
とは限りません。
6.ASDでは「まれな変異」も重要

ASDの遺伝研究では、
rare variant(まれな遺伝的変異)
も重要な研究対象になっています。
特に、
de novo variant(新生変異)
と呼ばれる変化があります。
これは、親からそのまま受け継いだものではなく、卵子や精子の形成過程、あるいは受精後の初期発生などで新しく生じた遺伝的変化です。
そのため、
両親にASDがなくても、子どもに関連する遺伝的変化が見つかる場合があります。
一方で、ASDに関連する遺伝的変化が見つかったとしても、それだけで必ずASDになるという意味ではありません。
遺伝的変化の種類や場所、影響の大きさ、ほかの遺伝的背景などによって意味が異なります。
近年の研究では、ASDに関連する遺伝子は非常に多数に及び、それらがシナプス機能、クロマチン制御、神経発達など、いくつかの生物学的経路に集約していく可能性が注目されています。
7.「遺伝子が違うのに、なぜ同じASDになるの?」
ここは、現在のASD遺伝研究の非常に面白いところです。
研究が進むと、
「ASDに関連する遺伝子がたくさんある」
ことが分かってきました。
すると、
そんなに違う遺伝子なのに、なぜ同じASDという特徴につながるの?
という疑問が出てきます。
現在考えられている一つの答えが、
異なる遺伝子が、共通する生物学的経路に影響する
という考え方です。
例えば、
Aという遺伝子
↓
神経細胞の発達に影響
Bという遺伝子
↓
シナプスの形成に影響
Cという遺伝子
↓
遺伝子発現の調節に影響
というように、出発点は違っていても、
最終的に神経発達の同じような仕組みに影響する
可能性があります。
そのため現在の研究では、
「ASD遺伝子を全部探す」
だけではなく、
「異なる遺伝子が、どの生物学的ネットワークでつながっているのか」
を調べる方向へ進んでいます。
8.一般的な遺伝的変異は「一つひとつの影響が小さい」
もう一つ重要なのが、
common variant(一般的な遺伝的変異)
です。
人間のDNAには、個人によって少しずつ違う部分があります。
その中には、比較的多くの人が持っている小さな違いがあります。
一つの変異だけを見れば、
「この変異があるからASDになる」
というほどの影響はありません。
しかし、
数千、数万という非常に多くの遺伝的な違いが組み合わさると、
発達特性のなりやすさに少しずつ影響する
可能性があります。
これが、
ポリジェニック(多遺伝子)
という考え方です。
9.そこで登場する「ポリジェニックスコア」

ここで今回の重要キーワード、
Polygenic Score(PGS:ポリジェニックスコア)
が登場します。
日本語では、
多遺伝子スコア
などと呼ばれます。
非常に簡単に言えば、
たくさんの遺伝的変異について、それぞれの影響を統計的に重みづけして、一つの数値にまとめたもの
です。
例えば、
遺伝的変異A → 少しリスクを高める
遺伝的変異B → ほんの少しリスクを高める
遺伝的変異C → ほとんど影響しない
遺伝的変異D → 少しリスクを低下させる
という情報を大量に集め、
それらを統計的にまとめます。
その結果、
「この人の遺伝的背景には、平均より高い・低い傾向がある」
といった研究が可能になります。
10.PGSは「診断点数」ではない
ここは、非常に誤解されやすいところです。
例えば、
「ASDのポリジェニックスコアが高い」
という結果が出たとしても、
「この人はASDになる」
とは言えません。
逆に、
「スコアが低いからASDではない」
とも言えません。
PGSは、
確率や傾向を研究するための指標
だからです。
2025年に発表されたASDのポリジェニックスコアに関する系統的レビュー・メタ解析では、72研究、合計約72万人を対象に検討され、ASDのポリジェニックスコアとASD診断との関連が確認されました。
しかし、研究者らは、現時点では臨床的に診断や予測へ使える段階ではないとしています。
つまり、
「研究には非常に役立つ」
けれど、
「個人の診断に使える」
とは限らないのです。
11.ADHDでもポリジェニックスコアが研究されている

ADHDでも、PGSを利用した研究が進んでいます。
大規模なGWASによって得られた遺伝的情報を利用して、
- ADHDの診断
- ADHD症状
- 認知機能
- 学習関連の特徴
- 他の精神・神経発達特性
などとの関連が研究されています。
また、ADHDの中でも、
ASDを併存する人
成人期に診断された人
など、異なる臨床的特徴を持つグループでPGSのパターンが異なることも報告されています。
これは、
「ADHD」という一つの箱の中にも、遺伝的背景の異なる複数のパターンが存在する可能性
を示す研究の一つです。
12.では、遺伝子を調べれば未来が分かるの?

ここで最も大切な話につながります。
もし、
「ASDには強い遺伝的要因がある」
「ADHDにも強い遺伝的要因がある」
「PGSで遺伝的リスクを計算できる」
のであれば、
遺伝子を調べれば、その子の未来が分かるのでは?
と思うかもしれません。
しかし、
答えは「まだ分からない」です。
その理由の一つが、
遺伝的リスクは「結果」ではなく「発達の条件の一部」だから
です。
人間の発達は、
遺伝
×
発達過程
×
環境
×
経験
×
身体状態
×
社会的環境
などが複雑に関係しています。
同じような遺伝的背景を持っていても、発達の経過が完全に同じになるわけではありません。
13.「遺伝=運命」ではない
ここまで読んで、
「でも、遺伝の影響が大きいなら、結局は決まっているのでは?」
と思うかもしれません。
ここで、
遺伝率
と
個人の運命
をもう一度切り分ける必要があります。
遺伝率が高いということは、
「変えられない」
という意味ではありません。
例えば、身長には遺伝的な影響があります。
しかし、栄養状態や健康状態などによって実際の身長は変化します。
これはASDやADHDを「身長と同じ」と言っているわけではありません。
重要なのは、
遺伝的な影響が強いことと、環境や経験の影響を受けないことは別問題
だということです。
14.遺伝子は「スタート地点」を作るが、発達そのものではない

発達を考えるとき、
遺伝子は「スタート地点の条件」を作っていると考えると分かりやすいかもしれません。
しかし、そこから先には、
- 脳の成熟
- 経験
- 学習
- 睡眠
- 身体状態
- 周囲との関係
- 教育
- 支援
- 環境調整
など、さまざまな要素があります。
もちろん、これらによってASDやADHDという診断そのものが簡単に「消える」という意味ではありません。
そうではなく、
同じ発達特性を持っていても、その人がどのような困難を経験するのか、どのような能力を発揮できるのか、どのような生活を送るのかには大きな個人差がある
ということです。
これは、臨床的にも非常に重要な視点です。
15.ここまでのまとめ

前半では、ASD・ADHDの遺伝研究について、まず基本となる考え方を整理しました。
ポイントは次の通りです。
- ASD・ADHDには大きな遺伝的寄与がある
- しかし「一つの遺伝子」で説明できるわけではない
- まれで影響の大きい遺伝的変異も存在する
- 多数の一般的な遺伝的変異も少しずつ影響する
- ASD・ADHDは多因子的な発達特性として理解する必要がある
- 遺伝率は「個人の運命が何%決まるか」という数字ではない
- ポリジェニックスコアは、多数の遺伝的変異をまとめた研究指標
- PGSは現在、個人のASD・ADHDを確定診断するための検査ではない
- 遺伝的リスクが高いことと、将来の状態が決まっていることは同じではない
そして後半では、さらに重要なところに入ります。
では、実際に「遺伝」と「環境」はどのように関係しているのでしょうか?
また、
なぜ兄弟姉妹でも発達特性が違うのでしょうか?
そして、
ASDとADHDは、遺伝的にも共通する部分があるのでしょうか?
さらに、
「遺伝子検査で発達障害が分かる」という情報は、どこまで本当なのでしょうか?
後半では、これらを含めて、
「遺伝=運命」ではない理由を、現在の遺伝学研究からさらに深く考えていきます。


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