「そんなに大きな音じゃないのに、なぜつらいの?」

「掃除機の音が苦手」
「教室のざわざわした音で疲れてしまう」
「服のタグがずっと気になる」
「蛍光灯の光がまぶしくてつらい」
「人混みにいるだけで疲れる」
ASD(自閉スペクトラム症)のある人からは、このような感覚に関する訴えがしばしば聞かれます。
しかし周囲から見ると、
「それくらい普通に聞こえるけど?」
「気にしすぎじゃない?」
「我慢すればいいのでは?」
と思われてしまうことがあります。
ここで重要なのが、
「刺激の強さ」と「その人が感じる負担」は、必ずしも同じではない
ということです。
同じ音を聞いても、
ある人には「気にならない音」でも、
別の人には「注意を奪われ続ける刺激」になることがあります。
そして現在の神経科学では、この違いを単なる「気にしすぎ」ではなく、感覚情報の処理の仕方の違いとして研究しています。
ASDでは感覚の違いが重要な特徴になっている

ASDの診断基準では、社会的コミュニケーションや行動の特徴だけではなく、
感覚刺激に対する過敏さ、鈍感さ、あるいは特定の感覚への強い関心
も重要な特徴の一つとして位置づけられています。
例えば、
過敏になる
- 大きな音が非常につらい
- 明るい光を強くまぶしく感じる
- 特定のにおいが苦手
- 衣服の感触が耐えられない
鈍感になる
- 痛みに気づきにくい
- 温度変化に気づきにくい
- 周囲の音に反応しにくい
特定の刺激を求める
- 回転するものを見続ける
- 特定の音を繰り返し聞く
- 体を揺らす
- 強い圧迫刺激を好む
などがあります。
つまり、
ASDの感覚特性は「過敏」だけではありません。
感覚に対する反応は、
「強すぎる」
だけでなく、
「弱すぎる」
「特定の刺激を強く求める」
など、多様です。
感覚過敏は「感覚器官が壊れている」という意味ではない
ここも非常に重要です。
感覚過敏があるからといって、
「耳が悪い」
「目が悪い」
という意味ではありません。
例えば聴覚過敏の場合、
耳そのものに異常があるとは限りません。
音は耳から入ります。
しかし、その後、
脳がその情報をどのように処理するか
によって、感じ方は変わります。
これは、
「音量」という物理的な情報と、
「その音がどれくらい負担になるか」
を分けて考える必要があるということです。
脳は「入ってきた情報」をそのまま受け取っているわけではない

ここからが、最近の脳科学で非常に重要なポイントです。
私たちは、
「目や耳から情報が入ってきて、それを脳が処理する」
と思いがちです。
しかし脳の情報処理は、それほど単純ではありません。
脳は、
「これまでの経験から、次に何が起こるか」を予測しながら、入ってきた情報を処理している
と考えられています。
この考え方を説明する理論の一つが、
Predictive Coding(予測符号化)
です。
Predictive Codingとは?

Predictive Codingを非常に簡単に説明すると、
「脳は、世界を受け身で見ているのではなく、常に予測しながら見ている」
という考え方です。
例えば、
いつも通っている道を歩いているとします。
前から自転車が来れば、
「自転車が来るかもしれない」
と無意識に予測します。
そして実際に自転車が来れば、
「やっぱり来た」
となります。
一方、
突然、後ろから大きな音がすると、
「何!?」
と強く注意が向きます。
これは、
予測していた情報と、実際に入ってきた情報のズレ
が大きかったからです。
このズレを、
Prediction Error(予測誤差)
と呼びます。
脳はこの予測誤差を利用しながら、
「今、何が起きているのか」
を更新していると考えられています。
「予測」がうまくいくと、脳は省エネできる
Predictive Codingの考え方では、
脳はすべての情報を同じ強さで処理しているわけではありません。
予測できる情報については、
「たぶんこうなる」
という予測を利用することで、
処理する情報量を減らすことができます。
例えば、
毎日聞いているエアコンの音。
最初は気になっていても、
しばらくすると気にならなくなることがあります。
これは、
脳がその音を「予測可能な背景情報」として処理するようになるためと考えることができます。
一方で、
突然の物音や予測できない刺激には、
強く注意が向きます。
つまり、
脳は「すべての刺激を同じ重要度で処理している」わけではない
のです。
ASDでは「予測」の仕方が違うのか?
ここからがASD研究の最前線です。
近年、
ASDでは感覚情報を予測する仕組みに特徴があるのではないか
という仮説が研究されています。
例えば、
「いつもと同じ環境」
であれば問題なくても、
突然、
- 音が変わる
- 光が変化する
- 人の動きが変わる
- 予定が変更される
といった状況になると、
強い負担を感じる人がいます。
これは、
「変化そのものが嫌い」
というだけではなく、
脳が環境を予測し、次に起こることを準備する仕組みに特徴がある可能性
から説明できるのではないか、と考えられています。
ただし、これは現在も研究中の仮説です。
Predictive CodingだけでASDの感覚特性をすべて説明できるわけではありません。2024年のレビューでも、ASDにおける予測処理について複数のモデルが検討されており、どの神経回路や処理段階に主要な違いがあるのかについては結論が出ていません。
「感覚ゲイン」という考え方

もう一つ、感覚過敏を理解するうえで重要なのが、
感覚ゲイン(Sensory Gain)
という考え方です。
「ゲイン」とは、簡単に言えば、
入ってきた情報をどの程度強調して扱うか
というイメージです。
例えば、
静かな部屋で小さな音が聞こえたとします。
通常なら、
「まあ、気になるほどではない」
と処理するかもしれません。
しかし、その情報が強く増幅されるような状態なら、
「何の音?」
と注意が向きやすくなります。
もちろん、実際の脳は単純な「音量調節つまみ」ではありません。
ここでいう感覚ゲインは、
特定の感覚情報をどの程度重要なものとして処理するか
という神経情報処理上の概念です。
そのため、
「感覚過敏=感覚入力が単純に何倍にもなっている」
と理解するのは正確ではありません。
なぜ「小さな刺激」が大きな負担になるのか

ここまでの話を組み合わせると、
感覚過敏の理解が少し変わってきます。
例えば、
学校の教室を考えてみましょう。
そこには、
- 先生の声
- 友達の話し声
- 椅子を引く音
- 廊下の音
- 時計の音
- 蛍光灯
- 人の動き
- におい
など、非常に多くの刺激があります。
多くの人は、
「今必要な情報」
に注意を向け、
それ以外の刺激を背景に処理できます。
しかし、感覚処理に特徴がある場合、
背景にある刺激まで注意を引きやすくなる可能性があります。
すると、
一つ一つは小さな刺激でも、それが積み重なることで大きな負担になる
ことがあります。
これが、
「別に大きな音はしていないのに、教室にいるだけで疲れる」
という体験につながる可能性があります。
「脳内ノイズ」という仮説

さらに最近注目されているのが、
Neural Noise(神経ノイズ、脳内ノイズ)
という考え方です。
脳の神経活動には、
必要な情報だけではなく、
一定のランダムな変動も存在します。
このような神経活動の変動を、
広い意味で「神経ノイズ」と呼びます。
近年の研究では、
ASDでは神経回路の興奮と抑制のバランスなどと関連して、神経ノイズが感覚処理に影響している可能性
が検討されています。
2024年のレビューでは、「high neural noise(高い神経ノイズ)」仮説が、ASDにみられる感覚・知覚上の特徴を説明する候補の一つとして整理されています。
ただし、ここも重要です。
「ASDの脳はノイズだらけである」と確定したわけではありません。
神経ノイズ仮説は、現在も検証が続いている研究モデルです。
「感覚過敏」は単純な一つの原因ではない
ここまで、
- Predictive Coding
- 予測誤差
- 感覚ゲイン
- 神経ノイズ
という4つの考え方を紹介しました。
しかし、
「ASDの感覚過敏はこれが原因です」
と一つに決めることはできません。
実際には、
感覚入力 → 脳内での情報処理 → 注意 → 予測 → 情動反応 → 行動
など、多くのシステムが相互に関係していると考えられています。
さらに、
睡眠不足、
疲労、
不安、
ストレス、
環境の複雑さ
などによっても、感覚刺激への反応は変化する可能性があります。
したがって、
「昨日は大丈夫だったのに、今日は音がつらい」
ということも起こり得ます。
これは「気分の問題」という意味ではありません。
脳の情報処理状態そのものが変化することで、同じ刺激への反応が変わる可能性がある
ということです。
前半のまとめ

今回のポイントを整理してみましょう。
① 感覚過敏は「気のせい」ではない
ASDでは感覚刺激に対する過敏さや鈍感さ、感覚刺激を求める特徴などがみられます。
② 感覚過敏=感覚器官の異常ではない
耳や目そのものではなく、脳が感覚情報をどのように処理するかが重要です。
③ 脳は「予測しながら」世界を処理している
Predictive Codingは、感覚処理を理解するための有力な理論の一つです。
④ 感覚ゲインも重要な研究テーマ
脳がどの感覚情報を強調して処理するのかという視点から、感覚過敏が研究されています。
⑤ 「脳内ノイズ」は有力な仮説の一つ
神経活動の変動が感覚処理に影響する可能性が研究されていますが、まだ確立した説明ではありません。
後半では
後半ではさらに一歩進んで、
「なぜ感覚刺激でこんなに疲れるのか?」
という疑問を考えます。


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